タイトル_郷土の偉人
第10回 須藤 憲三

 わが国教育学の育ての親とも言われた文学博士吉田熊次は、明治7年中川村日影に生まれました。

 川樋小学校を卒業すると、宮内小学校高等科に入学し、下宿生活を始めました。下宿では冬でも足袋をはかず、理科の教科書は買わないで人から借りて全部写したり、いつも勉強しているため、いつ寝ていつ起きたのか下宿の人もわからなかったそうです。
 高等科を卒業すると山形中学校に進み、その後、東京の第一高等中学校(一高)に入学しましたが、東京では「書生」として住みこみ、雑巾がけ、茶碗洗いなど厳しいしつけを受けました。次いで明治30年東京大学に進んで哲学・教育学を勉強、卒業の時は成績優により「恩賜の銀時計」を受賞し、大学院に進みました。
 明治34年文部省の国定小学修身教科書の起草委員となり、同37〜40年倫理学・教育学研究のためドイツ・フランスに留学、同45年文学博士になりました。
 大正5年東京帝国大学教授となり教育学講座を担当、また昭和9年定年退職まで教育検定試験委員としても活躍し、わが国教育学の第一人者として教育界の指導にあたりました。
 大学退職後も国民精神文化研究所研究部長を昭和18年まで務めました。
 昭和20年4月から戦火を避けて中川の日影にある実家に疎開しました。この時東京帝国大学の図書も一緒に運び、中川地区の人たちは中川駅から日影地区までこの図書運びに汗を流しました。
 図書は戦後に大学に戻され感謝されました。
 熊次は疎開中も謹厳そのもので、毎日冷水摩擦や乾布摩擦を実行し、また決まった時間に散歩していました。村の人たちは時計がわりになると言っていたそうです。
 昭和39年、熊次は天寿を全うして91歳で亡くなりました。
 赤湯の旅館には、熊次が帰郷した際に書いた「壊嘗與老親共歓之夕」の色紙が掲額してあり、熊次の親への思いを語っています。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


吉田 熊次 (よしだ くまじ)
出身地:中川村日影
生没年:1874-1964(享年91歳)

明治34年文部省の国定小学修身教科書の起草委員となり、倫理学・教育学研究のためドイツ・フランスに留学。明治45年文学博士になり、大正5年東京帝国大学教授に就任。



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