タイトル_郷土の偉人
第10回 須藤 憲三
金毛和尚

 大正2年(1913年)5月、沖郷村は元村長佐藤祐作の銅像を沖郷小学校の中庭に建てました。元村長の銅像が建てられることは極めて珍しいことです。

 佐藤祐作は、江戸時代の嘉永6年(1853年)露橋の五左衛門家に生まれました。五左衛門家は大きな地主だったので、祐作は米沢城下に出て学問を修めました。

 明治15年(1882年)、祐作は29歳の若さで露橋村の用係(村長代理)となり、同17年には沖郷村の前身である萩生田村外15か村の戸長(村長)になりました。

 明治22年4月、萩生田村ほか15か村が合併して沖郷村が誕生。同26年、祐作は沖郷村第2代村長になりましたが、新しい村だからこそ抱える大きな問題が直面していました。
 合併以前の16か村は広い範囲にあったため、明治になって3つの小学校が建設され、沖郷として合併した後も学校は3つのままでした。そのため、ややもすると村民たちは学校区の3グループに分かれがちで、「沖郷村」としてのまとまりに欠けていたのです。
 祐作は、村を一致団結させるには小学校を一つにしなければならないと考え、村の人たちに訴えました。
 しかし、3つの学校に慣れた村民たちの中には、統合すれば大きな学校が必要だから莫大なお金がかかるとか、学校が遠くなって幼少の通学が困難になるとか反対する人たちも多く、村議会も賛成・反対が同数でまとまりませんでした。

 それで祐作は村長を辞職し、統合校は必要と訴えました。これで村議会は統合校建築を承認、新学校は明治29年に竣工しました。祐作はその後も、村の養蚕教師を自費で招いたり、入会山の問題を解決したり、沖郷銀行を組織して産業の振興を図るなど村のために尽くし、明治45年に藍綬褒章を受賞しました。

 なお、銅像は明治18年軍需物資として供出せざるをえませんでしたが、昭和27年その跡に顕彰碑が建てられました。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


佐藤 祐作 (さとう ゆうさく)

出身地:南陽市

沖郷銀行を組織して産業の振興を図るなど村のために尽くし、明治45年藍綬褒章を受賞。
昭和27年に顕彰碑が建設。



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