タイトル_郷土の偉人
第10回 須藤 憲三
金毛和尚

 江戸時代後期の天保4年(1833年)、川樋の岩部山に三十三観音像が彫刻され、近くはもとより遠くからもお詣りに来る人が絶えませんでした。
 この岩部山三十三観音をつくったのが川樋・松林寺16代住職金毛和尚です。
 金毛和尚は、若い時から修行僧として諸国をめぐり、りっぱなお坊さんを訪ねたり、有名な寺にお詣りしたりして修業しました。特に「西国三十三観音」には三度も巡礼して観音像を絵に写しとっています。

 天保元・2年は不作で、同3・4年は大凶作でした。そのため、4年の米の値段は以前の6倍にも値上がりし、人々は松の木の樹皮を剥いでその下の薄皮を餅にして食べるなどして(松皮餅)飢えを凌ぐ一方で、稲盗みや畑作物盗みも横行しました。

 このありさまを悲しんだ金毛和尚は、人々の心の荒れをおさめるには観音様の慈悲にすがるほかないと、前に写しをとっていた西国三十三観音の絵像をもとに、岩部山に三十三観音像を彫ることにしました。
観音像を彫るのは石屋さんですが、そのためには多くのお金が必要です。金毛和尚は赤湯・中川地域の住民に、観音像を1体ずつ寄附してくれるようお願いしてまわりました。
 その熱意に寄附は36体分集まり、三十三観音像は天保4年6月に完成しました。人々は巡拝する道を開き、石を片付けるなどの手伝いもしました。
 人々は金毛和尚を敬愛し、観音の慈悲を仰いで巡拝することで、盗みもなくなり、食事が少なくても心は平穏で、家業に励むようになったということです。

 金毛和尚はその後、二井宿慶昌寺、鮎貝常安寺、荒砥金鐘寺の住職を歴任して人々に親しまれ、安政6年(1859年)に亡くなりました。

 明治27年、中川の人たちは、三十三番目の観音様を彫った同じ岩に金毛和尚像を彫って、その徳を今に伝えています。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


金毛和尚 (かなげおしょう)

出身地:南陽市川樋
没年1959年




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