タイトル_郷土の偉人
第10回 須藤 憲三

 須藤憲三の名は初めて聞くという方も多いと思いますが、戦前まで赤湯小学校体育館の正面左右には、結城豊太郎と須藤憲三の大きな写真が掛けられていたそうです。
 当時、子どもの賢さを褒めるのに「末は博士か大臣か」という言葉があり、ひとかどの人物になれるだろう、なりなさいという意味を込めて言われていました。結城豊太郎は大臣になりました。須藤憲三は医学博士になり、さらに大学の学長になりました。二人は子どもたちを励ます格好の人物だったのです。
 須藤憲三は明治5年に赤湯村で生まれました。赤湯小学校を卒業すると、東京で医学校と附属病院を経営していた伯父を頼って上京。書生となって勉強に励み、21歳で医師開業試験に合格しました。しかしそれに満足することなく東京帝国大学医科に入学、明治38年に同大学の助教授となり、44年には医学博士になりました。
 大正元年から2年間ドイツに留学して勉強、研究のかたわらイギリス・オランダ・ベルギー・アメリカ等も見てまわりました。憲三はその後も大正4年・同9年・昭和4年に海外旅行をしています。
 大正3年、ドイツ留学から帰国すると金沢医学専門学校教授となり、同校を大学にしようと奮闘しました。大正12年、同校が金沢医科大学になると翌13年に同大学の学長となりました。
 憲三は大学の教授として、また学長として学生の指導や研究に情熱を注いでいましたが、写真撮影も大好きで、ドイツから写真専門書を取り寄せて露出や現像の諸方法を実験研究し、「写真小話」という本まで出しています。
 憲三の父は雙水(ふすい)様と呼ばれた能書家でした。憲三も字が上手でしたが、彼が愛用して磨り減った墨はどの角も直角だったそうです。
 また憲三は人柄がよく学業の成績も抜群だったので、あの福沢諭吉から「娘の婿に」と再三望まれるほどの人物でした。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


須藤 憲三(すとう けんぞう)

出身地:南陽市赤湯
生没年:1872-1934(享年62歳)

医術開業試験に合格し、帝国大学医科大学にはいり隈川(くまがわ)宗雄に師事。ドイツ留学後金沢医専教授、金沢医大学長となる。尿糖測定法などを考案した。



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