タイトル_郷土の偉人
第9回 水心子 正秀

 刀工とは刀剣を作る人、すなわち刀(かたな)鍛冶(かじ)のことです。刀は古い方から古刀、新刀、新々刀と仲間分けされています。室町時代までに作られたのが古刀、江戸時代前期までが新刀、寛政(かんせい)年間頃から後を新々刀と言います。水心子正秀は新々刀の第一人者です。
 新々刀は、新刀が平和に慣れて弱い作りになったのに反発し、南北朝〜室町初期頃の古刀を理想像としてその再現をめざした復古刀です。当時の日本が欧米諸国からの脅威にさらされたことに対する危機感から新々刀が生まれたと言います。この運動の提唱者が水心子正秀です。
 正秀は寛(かん)延(えん)3年(1750年)元中山諏訪原に生まれました。幼くして父を失い、母とともに親類の家で養育されましたが、古い膳に灰を敷きそれに字を書いて手習いをしたそうです。
 その後赤湯北町で野鍛冶をしながら、長井小出の吉沢三次郎鍛冶に学び腕を磨きました。後に刀工を志して山形に出、次いで武州八王子で修業し腕を上げました。
 安永(あんえい)3年(1774年)、もと山形の大名秋元家に刀工として召し抱えられ江戸に出ましたが、それに満足することなく、所々に刀鍛冶名人の子孫をたずねて学びました。「秘伝」は教えてもらえませんでしたが、自ら種々工夫したところがあったようです。
 寛政元年(1789年)、鎌倉時代一番の名人正宗の子孫山村綱広に入門、系図と秘伝書を授けられましたが、古刀を焼き直したりしてさらに工夫を重ね、やがて新々刀の巨匠と言われるまでになりました。
 正秀は、生涯に369振りの刀を打ちましたが、それにもまして彼のすばらしいところは、十数冊の本に書いてすべて公開したことです。弟子も北は出羽米沢から南は薩摩まで全国に及び、正秀は新々刀の祖とも言われました。
 正秀は有名になりましたが、ふるさとを忘れることはありませんでした。手紙の中で、「子どもの頃、豆柿の木で腹の皮をすりむいた」、「幼馴染の誰かれは変わりないか」と尋ねています。
 正秀は文政(ぶんせい)8年(1825年)76歳で永眠。昭和50年には赤湯八幡神社境内に正秀の顕彰(けんしょう)碑(ひ)が建てられました。散策の折りはぜひお訪ねください。

文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


水心子 正秀
(すいしんし まさひで)
出身地:南陽市元中山諏訪原
生没年:1750-1825(享年76歳)
[写真] 水心子正秀が故郷で世話になった鈴木権次郎にあてた書簡。市指定文化財。



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