タイトル_郷土の偉人
第7回 結城 健三

 結城健三は、明治33年、父法順・母たつの三男として宮内に生まれました。宮内小学校高等科の頃から文学に興味を持ち、諸雑誌に俳句・短歌・詩・短文を投稿、大正8年までに336編が入選、「少年倶楽部」に投書家の勇将として写真を掲載されたほどでした。
 大正8年に東京に就職し、北原白秋選の「日日歌壇」に短歌の投稿をはじめて抜群の成績をあげました。また、同10年山形新聞元旦号短歌欄に18首入選、翌11年元旦号にも23首が入選しています。
 大正11年、山形県にもどり、鶴岡、酒田、山形で新聞記者をしながら短歌を詠み続けました。しかし、経済的には恵まれず、昭和10年頃までは貧窮の歌を作り続けました。昭和3年には「極貧にゐて歌を思ふ心ほど有難きはなし」と詞書して「極貧再来」17首を発表しています。

 明日いち日足(にちた)れりと思う安(やす)けさや
   米を抱えて夜空を仰ぐ

 昭和11年、山形県庁に勤め、ようやく人並みの生活となりました。12年NHKラジオの短歌選評を始め、また、「山形県歌人協会」をつくりました。
 昭和22年、金雀枝短歌会をつくり、歌誌「えにしだ」を発行して県内歌人たちを指導しました。「えにしだ」は今も続いていて、平成23年5月に771号を数えています。
 昭和25年、健三は山形新聞の「郷土百人」のひとりに選ばれました。同38年、第8回斎藤茂吉文化賞を受賞、同39年から山形新聞の「やましん歌壇」の選者を11年間続けて県内短歌界の発展に尽くしました。
 昭和46年、ふるさと宮内の熊野大社境内に歌碑が建てられました。

 宮ばしらのかげより我の稚児(ちご)舞(まい)を
   見てゐ(い)たまいし母が恋しき

と亡き母への想いを刻んでいます。
 健三の歌碑はこのほかに、村山市東沢公園、鶴岡市の金峯山と湯殿山参道、山形市の沼の辺と大野目にも建てられていて、健三の県内における偉大さが偲ばれます。
 健三は昭和52年勲五等瑞宝章を受章、平成7年95歳で亡くなりました。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


結城 健三(ゆうき けんぞう)

出身地:南陽市宮内
生没年:1900-1995(享年95歳)
経歴:歌誌「えにしだ」主宰
県歌人クラブ会長
昭和38年 第5回斎藤茂吉文化賞
昭和52年 勲五等瑞宝賞
[写真]上:結城健三 下:歌碑(熊野大社境内)



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