タイトル_郷土の偉人
第6回 大沼宝山(金右衛門)

 新田地区は、江戸時代初期に銀山で栄えていました。銀山閉鎖後は田畑の開発につとめて川樋新田と称し、のちに川樋村から独立して新田村となりました。
 古くからの田畑は本田畑(ほんでんばた)と言い、新しく開発した所は新田畑と呼ばれました。新田畑は本田畑より年貢が安いのが普通でしたが、「新田村は、もともとは川樋村である」ということで、川樋本村と同率の高い年貢でした。
 これでは、新田村の農民は困窮する一方です。食べるにもこと欠き、衣服はぼろ、雨漏りや壁の崩れも修復できず、窓を張る紙もないという生活でした。そのため耕作に精を出すこともできず、村を離れる人も出てきて、村は荒所のようになってしまいました。
 この頃の新田村肝煎(きもいり)(村長)は大沼金右衛門でしたが、寝食を忘れて何度も米沢藩役所に救助と年貢の軽減を嘆願(たんがん)しました。でも、なかなか許可されません。
 それで金右衛門は、肝煎をやめてお坊さんとなって宝山と名乗り、神社や寺に祈願してまわったといいます。あるいは肝煎をやめさせられたのかもしれません。それでも宝山はあきらめず、自分にできることをしようと神仏に祈ったのでしょう。
 そのかいあってか、寛文(かんぶん)6年(1666年)に、米沢藩はようやく新田村の窮状を認め、これまで23%だった税率を13%にしました。大幅な減税です。村人たちの喜びはいかばかりだったでしょう。新田区はこの免状を「年貢減免三判書(さんばんしょ)」として大切に保存し、大沼宝山の徳を偲(しの)んでいます。
 しかし、宝山は藩からよく思われていなかったようで、父子で打ち首になったとも言われています。そのため村人たちは大っぴらに宝山に感謝することはできませんでした。
 約200年後の嘉(か)永(えい)6年、新田村民は恩に報いるため「宝山塔」を鎮守(ちんじゅ)山崎神社境内に建立(こんりゅう)。また、宝山の活躍を「宝山塔略記」に記録して残しました。
 昭和51年、大沼宝山の墓が損じたので、新田区が立派に整備しました。「宝山塔略記」にある「子々孫々に至る迄(まで)報恩の志を失うことなかれ」を新田区民はしっかりと形に示しているのです。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


大沼 宝山(金右衛門)
(おおぬま ほうざん きんえもん)

生没年:不明
江戸時代初期、新田村肝煎(きもいり)(村長)として年貢の軽減の嘆願を続け、出家以降も村に尽くした

[写真] 上:宝山塔
下:年貢減免三判書



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