タイトル_郷土の偉人
第3回 吉田 善之助

 戦国の世が終わり平和になると、日本全国で荒地の開発が盛んに行なわれるようになり、南陽市のあたりでも江戸時代の初め頃から開発が進みました。当時の沖郷地区は、吉野川や織機川の氾濫で荒野が広がっていて、それを開発しようとしたのが戸田新兵衛と息子の長兵衛でした。
 戸田家はもともと長野県の小豪族でした。慶長3年(1598年)に南陽市の金山城主となった色部光長を頼って来て、宮内に住みついたといわれます。元和9年(1623年)の宮内町割図を見ると、粡町に戸田新兵衛の屋敷が載っています。
 新兵衛は、荒野だった鍋田地区一帯の開拓を連れてきた家来たちと共に始めました。やがて鍋田に移り住むと、開発をさらに進め、ついに七百石の田畑を造り出したそうです。小集落ができ、米沢藩の役人が赤沢村と名付けてくれました。戸田親子はさらに津久茂(高畠町)にも17ヘクタールを開発しています。
 ところで、土地開発はよいことばかりではありませんでした。多くの田畑が増えればその分の用水が必要になります。それで新兵衛親子は、自分の財産から費用を出して用水路を作りました。それが赤沢堰で、改良して今なお使われています。
 しかし用水はまだまだ足りません。それは開発で田んぼを作り過ぎたからです。やがて長兵衛の孫も新兵衛を名乗り、宝永6年(1709年)に、用水を確保するため、吉野川の水源地になる小滝水林の北之沢と尾無沢に溜池を造り渇水期(かっすいき)に備えました。人々は「新兵衛堤」と呼んでその徳をたたえたといいます。
 その後、戸田家は長く赤沢堰の堰頭を勤め、鍋田村肝煎(きもいり)(村長)も勤めました。江戸中期以降は医者も開業し、「戸田医者」として親しまれました。

文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


戸田 新兵衛・長兵衛
(とだ しんべえ ちょうべえ)

生没年:不明

江戸時代初期に沖郷地区の開墾と治水に尽力

[写真]沖郷地区 赤沢堰



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