タイトル_郷土の偉人
第2回 西落合村 四郎兵衛

 江戸時代中頃の宝暦10年(1760年)7月、ここ南陽市に百姓一揆が起きました。百姓一揆とは、物価の値上がりや重税などに対して、農民が結束して年貢の減免、悪役人の追放などを要求して起こした団体行動です。
 当時の南陽市あたりは北条郷と呼ばれ、たいへんな水不足地帯で、ちょっと日照りが続くと田植えができなかったり、植えた苗が枯れてしまったりしていました。それで農民は米作不足を補うため、高く売れる青苧も栽培していました。
 宝暦の頃、置賜地方を支配していた米沢藩の財政が窮迫し、武士の給料を半額にするとか、年貢のほかに人別銭を徴収するなどひどい政治をしていました。米沢藩の政治を動かしていたのは森平右衛門でしたが、藩の財政不足を補うため、これまで対象外だった北条郷の青苧にも年貢を掛けたり、強制買上げをしたりしようとしました。
 困ったのは農民たちです。年貢の足しにしていた青苧の収入がなくなったら、自分たちはもとより子や孫、子孫たちまで生活困難になります。中でも水不足が深刻だった沖郷地区の人々は、宝暦10年6月、西落合村四郎兵衛らの呼びかけで法師柳の楊林寺で集会、青苧課役を止めてほしいと藩に訴えることにしました。リーダーに四郎兵衛、補佐役には同村の文次郎・新助、宮崎村の太左衛門を選びました。当時一揆の指導者は磔(はりつけ)・獄門(ごくもん)と決まっていましたから、リーダーたちは死を決してその地位についたのです。
 だが訴えは却下されます。一揆衆は7月8日、北条郷総鎮守(ちんじゅ)の宮内熊野権現前に集結し、神前に結束を固めるとともに、大鐘をついて村々に参集を呼びかけました。7月13日には藩庁に直接訴えようと米沢城下に向けて押し出しました。森平右衛門宅を打ちこわす計画もありましたが、窪田で奉行色部(いろべ)典(てん)膳(ぜん)の説得があり引返しました。
 宝暦12年4月に判決。指導者らは一度は磔刑に決まったものの、その後の判決で遠流・家財取上げ等に減刑され、重立ち衆には罰金、一揆に参加した村々には遠流人の賄料(まかないりょう)負担等の判決が下されました。また、青苧課役はとり止めになりました。一揆は目的を達成したのです。
 現在、西落合の白(しら)髭(ひげ)神社境内には伝青苧一揆の酬恩碑が建っています。由来はなく、安政5年(1858年)7月「総連中」とだけ彫ってあります。


文:南陽市史編集資料執筆担当 須崎寛二


西落合村 四郎兵衛
(にしおちあいむら しろうべえ)

生没年:不明
1760年7月
青苧一揆の指導者として蜂起。
一度は磔刑に決まるものの免れた。




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